今日の自立援助ホームの夕食です。
昨日から教誨師研修 一泊二日の学びに行っておりました。
一日、大阪を離れていたので、ホームのことが気になり、なんだか、夕食づくりを張り切ってしまいました。
いつもより、一品、おかずが増えた気が・・・(笑)
ところで、最近の活動の中で、抱えている子どものケースの話なのですが、そ
の支援活動の中で、子どもに対する気遣いで精いっぱいなのに、子どものこと
だけでなく、その子どもをどうこれから地域定着させていくかという機関連携
の問題で大人(の事情)に気遣ってばかりで、気もちがしんどくなります。
支援者たるもの、子どものことだけを気遣いたいのに、子ども以外のことに
労力を費やさせられてしまうことに残念です。
行き場のない子どもの居場所づくりをお願いしてきた機関が、かけた梯子を外
す行為に、私の中のマグマが沸々とたぎっております。
こんなことになるから、はじめから、強くお願いしていたのに…。
依頼され、入所した子どもが、最終的に、どこにも行く場所がなく、私達の
ホームで、引き続き「住みたい」「仕事を続けたい」「引き続き貯蓄をした
い」と希望してきたとき、
その子どもにとって、私達のホームにいることが利益になると判断出来たら、
残ってもらい、そのまま、応援します。
しかし、大人同士は、意地悪な言い方したら、なすりつけあいの一歩手前。
あのぉ、最終的に犠牲払って、面倒見るの、私達なんですけど。
僕ら面倒見ませんと言ったら、責任とってくれるんでしょうか?
そんな事情で文句の三つ、四つ、いや、五つくらい言ったら、さて、居留守使うわ。折り返し電話ないわ。
子どもの利益にかかわるから、怒ってるんですけど。
僕の利益やったら、こんな嫌な思いする、仕事しません。
頭下げて、委託してくださいって、頭なんか、下げたくないですよ。
なんで下げるんでしょう。子どもの為ですよ。
正直、こんな思いするんやったら、家帰って、寝転んで、娘とテレビ観てるほうが幸せやもん。
・・・
私達のNPO法人の顧問の先生は、元少年院の法務教官だった先生です。
先生は、法人の推薦文の中で、「野田君は問題児だった。納得がいかないことがあると感情が抑えられず、教官にとびかっかった。彼はまっすぐだった。」と私の性質を見事に描写してくださっています。
確かにその先生が勤務する少年院で私が24年前収容されていた時、まさに私はそういう少年でした。
上記の推薦文の一文が正確な私の性質の描写なのか、誉め言葉なのか(彼はまっすぐだったという表現において)、定かではないが、
わたしも人間なんで、年も取って成長もするし、何より、これでも、キリスト信者なんで、人にとびかからなくなりましたよ。
次、もし、僕が人にとびかかるときは、子どもを守る時だけですよ。
しかし、納得がいかないことがあると、(梯子を外されると)思わず、切れますよ。感情抑えられない気持ちになりますよ。ですので、まだ、言葉の上では”とびかかる性質”残っていますね。
でも、私は思うんです。
人を助けるのが使命の機関は、そういう支援者を励まして、育てるのが仕事じゃないんでしょうか?
目の前の子どもよりも、前例を作りたくない、そういうことを守りたいだけでしょ。
マッチングの問題もあり、すべての人の成長に効果が出し切れていないとしても、色々深い痛みや悲しみを抱えまくっている子でも、私たちのホーム来て、社会適応しつつあったり、就労定着しつつあったり、非行から離脱する子も少なくないですよ。
最後になりますが、結局、この活動を持続可能にしたいから、怒ってるんです。
ただ乗りがあたりまえになって、子どもを支えられなくなったら困りますからね
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